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マチュピチュ 隠し扉発見!? [中南米の考古学]

どうも、たいすけです。


昨日テレビで マチュピチュの隠し扉 が発見されたと番組でやってましたね


ということで、自分が実際にマチュピチュに行った時のことと合わせて、

インカマチュピチュについて話しますよ





まず、最初に インカ について簡単に



インカは現在のペルーに存在し、クスコを首都として最盛期には現在のエクアドルやチリ北部を支配下に置いていました。   


ケチュア語を公用語としていたが、文字は持ちませんでした。

現在残っている文字資料は、スペイン人が植民地とした後にスペイン人または先住民が書いたものです。


先住民が残した文字資料としては、ワマン・ポマ・アヤラ、ガルシラソ・デ・ラ・ベガが書いた物が有名です。

特に、ワマン・ポマ・アヤラの『新しい記録と良き統治』は、インカ時代の生活を文字だけでなく、を付けて説明している点で非常に貴重な資料となっています。



で、マチュピチュですが、インカ後期の1440年頃に第九代皇帝パチャクティによって建設されたと言われています。


1911年、探検家ハイラム・ビンガムによってマチュピチュは発見されました。

ちなみに、ハイラム・ビンガムはインディー・ジョーンズのモデルになったとも言われています。



マチュピチュは、何のために作られたのかという点については、未だに定説はありません。
皇帝の別荘だったとか、避難地だったとか、儀礼を行う場所だったとか様々な説があります。



昨日のテレビでは、隠し扉の先に皇帝が埋葬されている可能性があると言っていましたが、
本当に皇帝が埋葬されていたら、パチャクティである可能性が高いのではないでしょうか。
金製品などの副葬品もたくさんあるでしょうね。



インカでは、亡くなった皇帝をミイラにして祀り、生きている人間と同じように接していました。

前皇帝は後の皇帝の権威の裏付けになっていました。



亡くなった皇帝に対して生きている人間と同じように接していたわけですから、
マチュピチュに多くの人々が住んでいたことも納得できると思います。
皇帝のお世話をしなければいけませんからね。



マチュピチュは皇帝の死後も含めて(もしくは死後だけ)の別荘だったという可能性はあるかもしれませんね。  基本的に皇帝はクスコに住んでいましたので、別荘という意味です。




マチュピチュには私も実際に行きましたが、やはり感動しましたよ。


1日中歩き回っても全く飽きませんでした。

隠し扉は見つけられませんでしたが。


そして、一番強く印象に残っていることは



とにかく、日本人が多い


ことです。


マチュピチュに限ったことではないのですが、
ナスカやメキシコのテオティワカンといった有名な遺跡には、
良くも悪くも、必ずと言っていいほど多くの日本人がいます。


日本人はやはり遺跡が好きなんですかね。



まあ、こんな感じで今回は終わりにしようかと思います。

インカやマチュピチュについてはまだまだ書きたいことがあるのですが、
また今度にします〜



では、また次回!!




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