SSブログ
中南米の考古学 ブログトップ

インカ〜黄金と太陽の帝国〜 [中南米の考古学]

どうも、たいすけです。


みなさん、インカと聞いて何を思い浮かべますか?

黄金
帝国
ミイラ


実はインカとは、王のことを指す言葉だったのです。
正確には太陽の神(インティ)の子供とされる王族を指します。

スペイン人が入ってきた後に国を意味すると拡大解釈されるようになったようです。


さて、今回はアンデス文明の集大成とも言えるインカについてお話します。



インカは、13世紀からスペイン人に侵略される16世紀まで、現在のペルーを中心にチリやエクアドルを支配し栄えた文化です。
一般的にインカ帝国と呼ばれることが多いですが、インカは帝国なのか解釈の分かれるところだと思いますので、ここでは文化と呼びます。文化なのか文明なのかも定義的な解釈の違いがでてくると思いますが。


公用語はケチュア語で、国自体はタワンティン・スーユ(Tawantin Suyu)と呼ばれました。
タワンティン・スーユとは「4つの地域」という意味で、クスコを中心として東西南北に分かれた地域を指していたと言われています。


初代皇帝、建国者はマンコ・カパックと言われていますが、皇帝の初代から8代目までは神話的な存在であり実在したのは9代目のパチャクティからではないかとも言われます。


インカの神話については今後改めて。


インカには「王の道」と呼ばれる道が張り巡らされ、チャスキと呼ばれる人物が情報をあちこちに伝達していました。
広大なインカではチャスキの役割は非常に大きなものであったと思われます。
文字を持たないインカでは、キープという結び目をつけた紐を用いて情報を伝えていました。


インカでは文字がなかったため、現在残っている文字資料はスペイン人が入ってきてからのものです。
そのため、必ずしもすべてが正しいということはできません。
ですが、ワマン・ポマ・アヤラが残した「新しい記録と良き統治」など当時の様子が詳細に記録されている史料も残されています。


第13代皇帝のアタワルパの時代にフランシスコ・ピサロが率いるスペイン軍が攻めてきました。
スペイン人は馬に乗っていたため、馬を見たことがないインカの人々は上半身が人間の怪物が来たと思い混乱に陥りました。

スペイン人と対峙したアタワルパは聖書を手渡されたといいます。キリスト教徒であるスペイン人はキリスト教徒であるか試す意味で聖書を渡したようですが、本など見たこともないアタワルパは理解できるわけもなく、その聖書を地面に落としました。その瞬間、スペイン人はインカの人々を攻撃し始めました。

この聖書のエピソードは本当かどうかわかりませんが、あながちないとは言い切れない気はします。


スペイン人は捕虜となったアタワルパを解放と引き換えに黄金を要求しました。そして、スペイン人は6畳ほどで高さ2メートルの部屋いっぱいの黄金製品を得ました。
スペイン人が手に入れた黄金が本当はどのくらいだったのかはわかりませんが、想像を絶するほどの黄金を手にしたことは間違いありません。


黄金を手にしたスペイン人は、アタワルパを解放するという約束は守らず、処刑しました。

そうして王を失ったインカはなす術もなくスペイン人の征服されてしまいました。



ちなみに、スペイン人が手に入れた黄金製品はスペイン本国に送られました。
しかし、現在でもその時の黄金製品の一部は見つかっていないと言われています。

考えられないような量の黄金がどこかで眠っているかもしれませんね。



さて、今回はインカについて本当に簡単に話しました。
今後もっと踏み込んだインカの話もしようと思ってます。



では、今回はこのへんで。
また次回。

地上絵だけじゃない!? ナスカの土器が面白い!! [中南米の考古学]

どうも、たいすけです。


みなさん、ナスカの地上絵はご存知ですよね?
今なお発見され続けているナスカの地上絵は非常にミステリアスで興味深いですよね

しかし、ナスカ文化で面白いのは地上絵だけではないのです!
地上絵と同等、もしくはそれ以上に面白いもの
それは

ナスカ文化の彩色土器

です。


今回はそのナスカ文化の彩色土器について話していきます。



ナスカ文化は紀元前約100年から紀元後約700年まで存在した文化です。
現在のペルーの南部海岸地域にありました。

ほぼ同じ地域には、ナスカ文化の以前にパラカスという文化がありました。
パラカス文化は織物、特に染色技術に長けていました。
今見ても非常に美しいと感じることができる織物を多く作り出しました。


パラカス文化はナスカ文化の前段階的な文化と言われることがありますが、
ナスカ文化はパラカス文化の織物技術を受け継いでおらず、必ずしも文化的継承があったとは言い切れません。


ナスカ文化の特徴としては地上絵が挙げられますが、土器もアンデス文化の中で特異なものでした。
ナスカ文化の土器が他の文化の土器と大きく異なる点として挙げられるのは、その彩色です。

ナスカ文化の土器には、最大で12種類もの色が着けられました。

多くの文化を生んだアンデス文化の中でもこれほど多くの色を使って土器に彩色を施したのはナスカ文化だけです。


それに加えてナスカ文化の土器には非常にユニークな図像が描かれました。
ジャガーなどの猫科動物、鳥、猿、クジラ、神的存在など多くのモチーフがデフォルメされて描かれました。

それらモチーフの多くが地上絵にも描かれているというのも興味深いですね。


紀元後約500年頃に最も多くの色種が使われるようになりますが、紀元後約700年に向けてナスカ文化の衰退とともに色種も少なくなっていきます。


そして、ナスカ文化の土器の彩色技術はどの文化にも受け継がられることがありませんでした。



ナスカ文化の土器に彩色になんの顔料が使われたのかはまだわかっていません。
使用された顔料が分かればナスカ文化の人々の技術力の高さやナスカ文化の人々がどの地域の人々と交流があったのかがわかってくるかもしれません。



さて、今回はナスカ文化の彩色土器について簡単にではありますが話しました。
地上絵以外の点でもナスカ文化は他の文化と比べて特異な存在であったことが感じることが出来れば、さらに興味を持ってナスカ文化を見ることができるかもしれません。

ぜひ一度ナスカ文化の彩色土器にも目を向けていただきたく思います。


今回はこのへんで。
ではまた次回。

マチュピチュ 隠し扉発見!? [中南米の考古学]

どうも、たいすけです。


昨日テレビで マチュピチュの隠し扉 が発見されたと番組でやってましたね


ということで、自分が実際にマチュピチュに行った時のことと合わせて、

インカマチュピチュについて話しますよ





まず、最初に インカ について簡単に



インカは現在のペルーに存在し、クスコを首都として最盛期には現在のエクアドルやチリ北部を支配下に置いていました。   


ケチュア語を公用語としていたが、文字は持ちませんでした。

現在残っている文字資料は、スペイン人が植民地とした後にスペイン人または先住民が書いたものです。


先住民が残した文字資料としては、ワマン・ポマ・アヤラ、ガルシラソ・デ・ラ・ベガが書いた物が有名です。

特に、ワマン・ポマ・アヤラの『新しい記録と良き統治』は、インカ時代の生活を文字だけでなく、を付けて説明している点で非常に貴重な資料となっています。



で、マチュピチュですが、インカ後期の1440年頃に第九代皇帝パチャクティによって建設されたと言われています。


1911年、探検家ハイラム・ビンガムによってマチュピチュは発見されました。

ちなみに、ハイラム・ビンガムはインディー・ジョーンズのモデルになったとも言われています。



マチュピチュは、何のために作られたのかという点については、未だに定説はありません。
皇帝の別荘だったとか、避難地だったとか、儀礼を行う場所だったとか様々な説があります。



昨日のテレビでは、隠し扉の先に皇帝が埋葬されている可能性があると言っていましたが、
本当に皇帝が埋葬されていたら、パチャクティである可能性が高いのではないでしょうか。
金製品などの副葬品もたくさんあるでしょうね。



インカでは、亡くなった皇帝をミイラにして祀り、生きている人間と同じように接していました。

前皇帝は後の皇帝の権威の裏付けになっていました。



亡くなった皇帝に対して生きている人間と同じように接していたわけですから、
マチュピチュに多くの人々が住んでいたことも納得できると思います。
皇帝のお世話をしなければいけませんからね。



マチュピチュは皇帝の死後も含めて(もしくは死後だけ)の別荘だったという可能性はあるかもしれませんね。  基本的に皇帝はクスコに住んでいましたので、別荘という意味です。




マチュピチュには私も実際に行きましたが、やはり感動しましたよ。


1日中歩き回っても全く飽きませんでした。

隠し扉は見つけられませんでしたが。


そして、一番強く印象に残っていることは



とにかく、日本人が多い


ことです。


マチュピチュに限ったことではないのですが、
ナスカやメキシコのテオティワカンといった有名な遺跡には、
良くも悪くも、必ずと言っていいほど多くの日本人がいます。


日本人はやはり遺跡が好きなんですかね。



まあ、こんな感じで今回は終わりにしようかと思います。

インカやマチュピチュについてはまだまだ書きたいことがあるのですが、
また今度にします〜



では、また次回!!




私の考古学 [中南米の考古学]

どうも、たいすけです。


今回は、考古学 をテーマに話していきますよ〜



大きく振りかぶったタイトルをつけてしまいましたが、
今回はほぼほぼ自己紹介です。

深く突っ込むのはまた今度ということで( ^ω^ )



まずは、私たいすけがなぜ考古学に興味を持ったかという話ですが
一言でいうと


わけがわからんから


です。

その理由がわけわからんと言われると思いますが、
わからないことって面白いでしょ?


そして、私は中南米を専門としていたのですが、中南米を選んだ理由も

日本よりわからんから

まあ、ただ情報収集能力が乏しかっただけなんですけどね( ´ ▽ ` )ノ



大学で中南米の考古学を学び始めるとやればやるほどわからなくなり、
あれよあれよと中南米考古学沼にハマっていってしまったわけです。



日本で外国のことを学ぶという状況にいると誰でも
実際に行きたくなりますよね。


で、メキシコ に行きました。


大学生の時でした。
とりあえず、航空券だけ取ってひたすら遺跡めぐり

いや〜楽しかったですよ(≧∇≦)
それまでより一層好きになって帰ってきました。

このメキシコ旅についても今後書いていこうと思いますよ。



その後、大学院に進学し、院生時代には

ペルー に行きました。


また航空券だけ取って、マチュピチュとかナスカとかを周ってました。

いや〜楽しかったですよ(≧∇≦)
そして、さらに好きになって帰ってきました。

このペルー旅についても今後のお楽しみということで。




これまで中南米の考古学を学び続けて思うことは、


結局よくわからん


ってことです


そして、わからないから面白い!


つまり、中南米考古学が好きだってことです




とまあ、今回は考古学の話というよりほぼほぼ自己紹介でした。

専門で学んでいたことについての真面目な話は、追い追いということで♪(´ε` )





次回は、私の趣味である自転車について話そうと思います。
テーマは 自転車ースピードへの挑戦ー です
中南米の考古学 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。